昭和42年02月15日 朝の御理解



 天才と馬鹿は、紙一重という様なこと申しますですね。そんなに天才と言われる様な者が、人が、世の中に沢山居ろうとは思われません。というて、又、あれは馬鹿といわれる様な人が、又、沢山おるとも思われません。やっぱり普通の平々凡人であるという、そういう人が一番多いのじゃないでしょうか。皆さんは、どういう風に思われますか、教祖の神様の素晴らしさと申しますか。
 教祖の神様のご信心が、私共平凡な凡人に一番有難いと思われることはですね。どこまでも無学の百姓でおありになるという事だと思うですね。例えて申しますならば、キリストは「とよずたい」いわゆるその、お父さんがなくてお母さんだけから生まれたと言う、これは、まずそこんところを信じなければ、キリスト教の信心の根本はないのです。そげなことがあるもんかというたら、キリスト全部が無いのと同じです。
 仏教であるところのお釈迦様でも、やはりそうです。一国の王子様として生まれられたと。しかも天上天下唯我独尊と、もうこういう人は天にも地にも、いわば吾一人だという様な素晴らしい人なんです初めから。ところが教祖の神様の場合なんかは、本当に無学の百姓で相分かりませずという、そこんところをです。只実意丁寧神信心が何時の間にか、段々人間の心の中に、誰しもが持っているところの神様の心。
 霊性というものが研きに研かれて、天地金乃神様という神様から、お前の様な氏子はまだかって見たことがなかったと言われる様なところへ精進なさったところから、それがでけておるところに素晴らしさがあるのであり。成程この方のことを生神、生神というけれども、この方ばかりが生神ではないと。この方はおかげの受け始めであって、皆んなもこの様なおかげが受けられると仰っておられます。
 そこんところが素晴らしいでしょうが、金光様のご信心は。私共も教祖の神様と同じなんだと、私共は教祖の神様がいうならば、水飲み百姓の一伜として生まれられたという様にです。私共は一小さい零細な商売人の子として生まれた。はぁ親先生は天才だと、親先生の真似はでけんといった様なことを申しますけども。私ぐらいな者の真似が出来んなら、金光様の真似はなおさら出来ん。
 そんなことはないです。人間凡夫が持っておる一切のものを具足しておる、持っておるのだ。これではいけん、これではおかげが受けられん、と、一心発起したところからです。これではいけないというところを改める。これが本当だと分かったら、それを敢然と行じていくと言うこと以外にはないのです。そげん私共は、生神様にならんでん、なれんでしょう、けれども。
 そこんところを目指さして頂いて精進さして貰い、努力さして貰うというところに私は教祖の神様の御信心の素晴らしさがあると同時にです。私共はなんと有難いいわば御信心に縁を頂いておる者であろうかとこう思うのです。私共例えば仏教信者であり、キリスト教の信奉者はです、もうそれは全然出来ません。もう別格の人としての、それに接近することは出来ません。もう、大体生まれが違うもの。
 ですから、その真似が出来るはずがない。そして、天地の親神様から、天地金乃神と同根というところまで、御神格というものを、いわばお進めになられたと。なるほど、この方がおかげの受け始め、皆んなもこの様なおかげが受けられる。生神とは神がここに生まれるということであってと。昨夜、丁度、御祈念をさして頂こうと思いよりましたら、久しぶりであの、久留米の石井清さんが参ってまいりました。
 善導寺迄参りましたからと言うて、有難いと思いますことは、そう言いながら、間、御無礼いたしとりますけれども、ひとつの、はぁあの御無礼者が参ってきたといった様なものではなくて、いわゆる、違和感というものがないのですね。やっぱり、親先生、親先生と言うてお参りしてきておった時と、ひとつも変わらない感じが、私もなら、清さんもそう感じらしいですね。
 御祈念を頂いて帰って、御理解頂き終わってからです、今日は、ひとつ清さんを囲んで、清さんの話でも頂こうかと、というてその、昨日は、ちょうど十二時頃まで、皆さん参り合わせた人と一緒に、炬燵を囲んで、色々信心話しをさしてもらい、ほとんど、清さんの信心話しを聞かせて頂いたんですけれども。この人なんかは、私はもう天才だと思うですね、ある意味で。例えば、椛目に御無礼しとってもですね。
 あの時分の信心から一つも崩れてないです。ところが私がさっき初めに申します様に、天才と馬鹿は紙一重と言うがですね。天才か馬鹿かですねこの人は。素晴らしいことを言うですね。もう本当に例えば少しお道の信心の勉強した者は、そこそことはぁそこですと、こういう様なことを言うです。ところがですひとつ間違うとこれが馬鹿じゃけん、あげなこつばっかり言うちいうごたることを言い出すですね、最後に。
 だからこの人は、馬鹿やら天才やら分からない、その話しをそりゃもう、だから非常に理屈っぽいですから、聞きよった人達でも眠けがさすごたる。前で、繁雄さんが聞きよんなさった。久富繁雄さん、そしたら、その眠っとりなさる。そしたらその、清さんの話を夢うつつで聞きよるうちにです、こんな食パンを細切れに、ずっと切ったところを、炬燵の前に頂いたところを頂だかれたんです。
 だから、どういうことでしょうかと。清さんの生き方でいきゃですね。もう絶対、その食い外していうことはないですね。もうこれは絶対行き詰まるということはないですね。けれども、何時もパンばっかり食べとかんならんという感じですね。それに、例えば、スープもある、こういうお料理も、それに伴のうておる。そういうおかげにはなっていない。同じままになるでも、そういう様な感じですね。
 これは馬鹿じゃなかろうかちいうことは、こういうことを言うんです。自分の伯母さんに当たる人に、沢山の借金を持っとる。まぁ自分がしたわけじゃないですけれども、自分がしたつと同じことで、借金を持ってるんです。だから、人間は何時も借金負うとかにゃいけんとこういう訳です。もう、それこそ馬鹿んごと言われたんですね。その伯母さんから。本当何と言うでしょうか。
 石井のおかげで自分方が潰れるという位に言われた訳なんです。けどもそこんにきは平気であるというところは天才です。案外平気です。そして、ほんなら、もう十年かその上も経ちますでしょうが、この頃からでしょうか知らんけれど、あちらの従兄になる人が結婚したと言う。それで箪笥を一竿持って行ってやったら、もうそれこそ当てにしとらんところから貰うたもんじゃけん。
 もう先生私ば、神様のごと言うて喜ばっしゃったと、こう言うのです。その点私の方の母なんかは、もうちょっと何か貰うたら必ず直ぐそればお返ししなきゃ出来ない。自分がそれだけ、きちっとした事をするもんだから、人がきちっとしたことせんと、何時もだから不平である不足である。嫁なら嫁に対して姑親としての、これだけのことはしよると自分で思うとるもんだから嫁のすることが、もう不足で不足でたまらん。
 もう朝から晩まで不平不足を言うとりますとこう言う。私は誰からでも借金を負うとると思うから、利払いと思うから、箪笥一竿ぐらい持っていくぐらいなことはもう当たり前、それでいて、私は神様のごと扱われておる、喜ばれておるとこう言うのですよ。ここんにきになってくると、ちょいとこれは馬鹿です。お道の信心はです、本当に借ってる物は返さして頂こう、いわば報恩の生活に尽きるのです、お道の信心は。
 恩に報いる生活に、御本部参拝を親先生がなさった時に、清さん、明日帰るばいという風に言われたら、何時でもその、お迎えの車で送ってあげられると。それは親先生にご恩があると思うから、ひとつもそれは損したとか、困ったとは思わないと言う訳なんです。そこを、なかなか素晴らしい様でありますけれども、皆さんどうですか。それを知らない間は、あれは恩知らずと、例えば思われるわけなんです。
 教祖の神様の御信心の中には、そういうものが、もうさらさら、微塵もないです。その、石井のお母さんじゃないけれども。本当に、それはこうしてお返しをすることが当たり前としてなさっておられる。しかも相手が、しないからと言うて、それを不平も言われなければ不足もない。そこにお道の信心なあるとです。自分がこれだけのことをしたから、これだけの事して貰えないというものじゃないです。
 なさることはなさって、そこの先には何にも、求めるものがないというところ。皆さんどうですか、そうしてみると、あんまり天才であることはよくないです。不幸ですね、ある意味では。それはそれに生まれつくのですから、仕方のないと致しましてもです。私共は、どこまでも無学の百姓であり、人間生身を持っておる凡夫のことで相分かりませず、どれだけのことをしたからと言うても、これで済んだとは思いません、というのでなからなければならんのです。
 とれだけのことをさせて頂いても、これで済んだとは思いません。そこからです、私は、良いものが生まれてくるんだと。清さんの言を借りますと、例えば人間は、この体の、自分の体から、例えばシラミの様なものがわいてくる。このほうからかしとくと。例えば肌着なんかを替えんなおるとですね、汗やら垢から、シラミというものが生まれてくる様にですね。やはり、生神とは、神がここに生まれるという事であってというのは、それと同じだというのですね。
 それは、だから確かにそれはそうですよ。ところが、すぐ、それを熱湯をかけたり、洗濯をするから、折角のシラミが死んでしまうという訳なんです。折角、心の中に有難いというものが生まれるけれども、それを育てようとしない、神がここに生まれるのだけれども、その神を本当に育てようとしないところにです。私は何時までも、生神へ向かっての道が正しいものになってこないと私は思うですね。
 その心の中に生まれる生神と言うものがです。どういうふうにして育っていくかというと、私は、実意丁寧神信心以外にないと思う。借ったもんな、借金負うとくがよかといった様なものではなくてです。もう、一生懸命に努めに努めて返さして頂くことに努力すること、精進すること。言われた時だけ利子持っていくといった様なもんではなくてです。そこに私共はです、凡夫であることを喜びとしなければならんです。同時に凡夫であるがゆえにです。
 何処にお粗末が御無礼があるやら相分かりませず、これで済んだとは思いませんという信心が、精進が、私の心の中に育っていくところの生神的な喜びの心というものが育っていくのです。それを、教祖はお徳と仰られた様でございます。そこにはです、行き詰まらないという、いわゆるパンだけを食べとかんならん様なものではなくてです。それこそ山海の珍味です、いうならば。
 あらゆるおかげの世界というものを、そこから顕現していくことが出来る、現わしていくことが出来る。生神を育てていくということと同時にです、同時におかげを現わしていくことが出来る。限りなく然も。私共は先ず教祖の神様のご信心、いわゆる、お立てになられたところの金光教というお道にご縁を頂いたということを、先ず先ず、有難いと思わなければならん。
 そこに、他の他派、他宗では追従を許さないものがある。一無学の百姓であり、凡夫である教祖の神様の実意丁寧の神信心、だからその、実意丁寧の道と言われるのはそこなんです。お道の信心は何処までも横着であってはならん。実意を極めなければ、丁寧を極めて行かなければならん。借金負うといて借金が払えんなら、本当に断わりに行かなければいけん。払える様になったら払わにゃいけん。
 言われた時に払う、払うとは、だから惜しゅうはなか、向こうが当てしとらんとに持って行ったもんじゃから、本当に神様ごと喜ばれた。これでは、私はお道の信心は成り立たないと思うんです。それで、成程、行き詰まりはないでしょう。成程、あの人は行き届いてござると、お道の信心をするなら、あぁでなからにゃならんと、例えば、神様からも、人間からも言われ思われしてです。
 それでいて、自分がしたからというて、それに恩着せがましい事を言うのじゃない。
 例えば、する、せん、そんなことは問題じゃない。きちっとする人、自分がその几帳面にやる人は、人が几帳面じゃないとそれが腹ん立つというのが、清さんに言わせると、自分方の母がそうだとこう。だから、それでは、やはりいけませんから、自分の心の中の喜びと言うか、生き神を育てていくためには。
 私は、そこんところを精進していかなければでけない。教祖の神様の辿られたところの神ながらな道を、私共は辿らせて頂けるということが有難いということと同時に、同時に、私が天才でなかったということをです、私は喜ばなければいけないと思うですね。凡夫であるということが有難いのです。叩かれりゃ痛い、その叩かれたら痛い私であるという事が有難いのです。
 叩かれながら、気持ちのようかてんなんてんいうとなら、これはひとつの変態です。そんなのが、間にはあるのですよ。だから、痛いからこそ、痒いからこそ、縋らなければおられんのであります。何処にお粗末があるやら分らん、何処に御無礼があるやら分らん、どれだけのことをしても、これで済んだとは思いませんという、私は、信心がです。お道の信心。そういう、信心の道を明示して下さった。
 教祖の神様へ対するところの信心と同時にです。自分自身も、又、一凡夫であるということ。いわゆる、無学の百姓であるということ。めぐり深き私であるということをです、私は、喜びとさして貰わなければならんと思う。天才と馬鹿は紙一重です。あれは、ゴッホとかいう絵描きがおりましたですね。天才でした、天才と言われております。又、天才的な絵を沢山残しとります。
 けれども、やはり、ひとつ間違うたら、やはり、気狂いとして取り扱われ、気狂いとして亡くなったんですね、あの人は。だから、いくら天才と、褒め称えられてもです。気狂いになったんじゃ、私はつまらんと思うですよね。ひとつ間違うと言うておること、はぁあすこまでは素晴らしか。けどあれば言わんとよかばってん、あれからが馬鹿んごるこつ言うもんのと、いう様なことではいけないと思うですよね。                どうぞ。